パシャリとどこかで水の跳ねる音がした。魚か何か、天の川に住む生きものが立てた音だろうか。
魚になって泳いでいけたら。ふとそんな考えが浮かぶ。向こうは遥かに遠いけれど、水は冷たいだろうけれど。きっと行ける、会いに。
「ヘンリエッタ」
 祈るように閉じた目。瞼の裏の真っ黒な世界。不意に聞こえた懐かしい声。
「ヘンリエッタ、ここだ。窓の下だよ」
「王子!」
「ああ。すまないが、手を出してくれるかい」
 声の通りに窓へと身を乗り出し、手を下ろす。ヒンヤリとした濡れた感触が手の平を包み、手の甲にも一瞬よく似た感覚が触れる。途端に星々とは違う、もっと眩い光が溢れ、不思議な煙が辺りに満ちる。たまらず目を閉じると、ポンッと音とともに手に触れるものが変わった。水に濡れて冷たいけれど、段々と温もりが伝わってくる。自分の手よりも大きな、男の人の手。
「ヘンリエッタ、ようやく会えた」
 星明かりに照らされ、目の前で微笑むのは―
「王子…」
「本当なら今すぐ君を抱き締めたいのだけれど…
 今の私が触れてしまうと君まで濡れてしまうから」
 ほんのわずかに寂しげに笑む王子の姿は確かに水に濡れていて、その髪や睫毛にも繊細な飾りのような水の玉が、輝く。名残惜しげに手を離す王子の手を捕まえて、ヘンリエッタは自分の頬に押し当てそっと両手で覆う。一瞬感じる水の冷たさに、すぐに王子の優しい熱が伝わった。同じように自分も返して、分け合えればいい。
「ねぇ、王子。どうしてそんなにびしょ濡れなの?」
 嬉しい、会いたかった、寂しかった、一体どうやって。言いたいことも訊きたいこと山のようにあるのに、出てこない。ようやく言えたのは、そんな単純なことだけ。
「今日は西の岸と東の岸が、一年で最も近づく日なんだよ。だからここまで泳いできたんだ」
「…いくらなんでも無茶よ。近くなったっていってもあんなに遠いのに」
 王子の気持ちは嬉しい。けれどどんなに目を凝らしても向こうが遠く霞むほどの距離だ。どれだけの間冷たい川の中にいたのだろう。何かあったらと思うと不安で、思わず握った手に力を込めた。
「大丈夫。蛙の姿の私にとって泳ぐことは歩くことと変わらない。
 それに、たとえどんな無謀な行いでもせずにはいられなかったんだ。一年もの間、愛しい人と離れて過ごす苦痛に比べれば辛いことなどないさ」
 心配故に眉根を寄せた少女を宥めるように優しい声で想いを告げて続けた。
「君だってそうだったのではないかな?ヘンリエッタ」
「な、何が?」
「『魚さんになれたら』」
「どうして王子が知ってるの!?」
「君がさっき呟いているのが聞こえたんだ。魚になって泳いで行けたら…という意味かと思ったんだが」
「ちちち違うわ!!」
 おや、そうなのかい、と蛙の王子は幸せそうに首を傾げた。ヘンリエッタの考えたことなど全てお見通しのうえで言っている。王子にそんなつもりはないと分かっていても、からかわれているような気がして真っ赤になって睨んでしまった。
 蛙の王子の頬だってうっすらと染まっているが、ヘンリエッタのようにどこかいたたまれない気持ちな訳ではない。
 いつも余裕の王子に、ほんの少しだけ仕返しをしてみたくなった。
 困らせたい?そうじゃない。ただ悔しい。王子はヘンリエッタが困るほどに幸せすぎて苦しくなるほどに、愛しさでくるんでくれる。自分も同じように想いを返して、その結果困らせたいというのが正しいかもしれない。
 だから、王子の濡れないようにとの気遣いもわざと無視して、ぎゅっと抱きついて頬にキスをした。
「…!」
 恥ずかしさに閉じた瞼の暗闇の中、耳に届いた声にならない息。
 少しは困らせることは出来たかしら。


「と、とにかく、いくら夏でもこのままじゃ王子が風邪ひいちゃうわ!とりあえず中に入らないと…」
「しかし私はこの有様だからね。部屋の中が川の水で濡れてしまうよ?」
「大丈夫!私が花瓶を落として割ったときに比べればかわいいものだわ!」
「よかった、お転婆は相変わらずのようだね。少し安心したよ」
「王子…嬉しくないんだけど。しかもどうして安心するの?」
「君がとても美しくなったから。一瞬見違えたよ」
「………」
「けれど間違いなく、私の、私だけのお姫様だと実感出来たよ。
ありがとう、ヘンリエッタ」


 何故、蛙の王子は蛙になれるのか?それは…
 会いに来る方法はそれぞれの個性を使おうぜ☆ということで、模索した結果です。
 蛙の王子の個性=蛙という図式が成り立った故です。

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